FPP(1人称視点)とTPP(3人称視点)
前回の記事において、マインドフルネス瞑想の結果として、前頭前野を鍛え、肥大化させることができる可能性について言及しました。
マインドフルとは、「あるがまま」を観ることであり、「主観というフィルター」を通さずに事物を観るということは、「直観」や「無分別智」といってもいいかもしれません。
本当は、方法論などないと思いますが、ここではそのコツについて書いてみたいと思う。
本記事のキモはここになります。
①実況中継する
感情や思考を実況中継する。実況中継というのは、「いま・ここで」起こっていることである。
例:感情の場合ならば「いま、イライラを感じている私」や「悲しみを感じているなあ、わたし」など。
思考の場合ならば、「いま、こんなことやりたくないなー、と思った(考えた)私」や「あの人が絶対に悪いよなー、といま考えた(思った)わたし」など。
②3人称の視点で語る
感情や思考を3人称で語る。
上の画像の左側3人称視点で視る(観る)ことである。3人称視点=Third Person Perspective=TPPです。
それは、観ている「私」と、観られている「感情」や「思考」というものに分けられ、それらには距離(スペース)が存在する。
例:感情の場合ならば、自分の「感情」や「思考」のことを「いま、彼はイライラを感じている」や「彼女は悲しみを感じているなあ」など。
また「イライラを感じているな、○○○○(名前:たとえば私なら内藤拓也)」や「内藤拓也が悲しみをかんじているなあ」など。客体化できます。
思考の場合ならば、「いま、あの人が悪いと思った、○○○○(固有名詞)」といった感じで語る。
※ミシガン州立大学のモーザー准教授らの研究で、3人称を使うグループの方が、1人称を使うグループよりも、感情に関わる脳の部位(扁桃体)の働きが低下していた。
いま、外側で起こっていることであれ、内側で感じたり・思ったりしていることであれ、実況中継します。
結論:3人称で、実況中継する。
わたし=感情や思考ではない
NVC(非暴力コミュニケーション)では、①観察 ②感情③ニーズ④リクエストというプロセスがありました。
最新の心理療法では、ほとんどすべての領域の中核に、マインドフルネスというものがありますが、NVCでもまず①の観察というのがマインドフルに外側の世界で起こっていること(いわゆる事実)を観ることからはじまります。
その次の②感情というのも、自分の内面に生起するピュアな感情(思考ではなく)をマインドフルに観るというプロセスがあります。
たとば「ようこそイライラ」とか、「ようこそ、恐怖」「ようこそ、不安」「ようこそ、ねたみ」などといって、迎え入れることで「真に味わう」ことができます。
人が「ようこそ」という時には、客として迎え入れるときです。そこには、迎え入れる主(わたし)と迎え入れられる客(感情)がいるということです。観ている主体と、観られている客体とが距離をもって存在しています。
または、味わう主体と、味わわれる客体とが距離を持って存在します。
もし、何かを味わうときに「これは美味しい」といった時には、観察はされておらず、そこにあるのは評価だと言える。評価をしているときは、過去との比較があり「いま・それ」ではない記憶という思考を繰り返していることになる。
評価というのは、止まることのない千変万化のものを固定化しようとする無駄なこころみである。
誰が、過ぎ行く雲をとどめておくことができるだろうか?
上の画像のように、流れる雲の一つ一つを「感情」や「思考」だとすると、観ている「わたし」と、観られている「雲」との間には観察ができる距離(スペース)があり、その一つ一つの雲をとどめておくことはできず、眺めていればいいということである。
わたしは感情ではない。わたしは思考ではない。感情や思考は、流れゆく雲と同じものである。
「わたし」と「感情」は別々のものだから、観察することや、味わうことができます。
繰り返しになりますが、あなたは、わたしは、感情ではありません。
同一化や同一認せずに、それらを観察対象にしましょう。
感情や思考と同一化しているとき、暴力的である
「わたし」が「感情(例えば怒り)」と同一化(ひとつになっている)していたら、観るものと観られるものがいないので、「気付く」という行為が存在しない。
同一化は、1人称視点=FPP(First Person Perspective)のようなものです。わたしが、感情そのものになっています。
あなたが「怒り」や「不安」そのものになってしまっています。
くりかえしますが、わたしは、刻刻変化する「感情」や「思考」ではないということです。
次回は、「感情」をしっかり感じることの意味について考えたいと思います。