感受性は強制によって喚起させることは絶対にできず、
どのような形の賞罰も精神を卑屈で鈍感にするだけである。
- J.クリシュナムルティ -
NVC - 非暴力コミュニケーション -
NVCとはNon Violent Communication(ノン・バイオレント・コミュニケーション)で、つまり非暴力コミュニケーショのことです。
マーシャル・ローゼンバーグ博士によって、体系付けられました。
NVCでは、つぎのように言っています。
- わたしたち一人ひとりの中に、人生を素晴らしくする十分な力がある。
- 共感と尊重に基づいた信頼できる関係の中で、人はもっとも生き生きと、自主性と創造性を発揮できる。
- 人はみな「ありがとう」と「お願い」しか言っていない。
- 人間はだれでも(生きるのに必要な)ニーズを持っている。
- モヤモヤ(不安、怒り、恐怖、恥、要望、希望……)の正体(ニーズ)が明確になると、次に何をすればいいか(自他へのリクエスト)がおのずと沸き上がってくる。
- あらゆる行動は、なんらかのニーズを満たすためにおこなわれる。
- 瞬間瞬間、すべての人はニーズを満たそうとして最善を尽くし続けている。
- 何かをやるとき・やってもらうとき、その動機が純粋な貢献の喜びからであるかどうか、恥・恐れ・報酬などからではないかに注意する。
我々の、日常的なコミュニケーションにおいて、一見穏やかで非暴力的に見えるものであっても、実は暴力的なコミュニケーションをしていることは多いのです。
わかりやすく云うと、例えば「上司が」、「お上が」などの権威を土台にした会話だったり、「常識」や「ルール」などを基に会話をしていることがよくあります。
それらは、私がどう考えているのか、何を必要としているか、(目の前の)あなたがどう考え、何を必要としているかといった生の会話をなしにして、他者や権威に服従する(または支配する)という二言論に彩られたコミュニケーションで、それらは暴力的です。
非暴力的なコミュニケーションのプロセス
対立を生み出すのは、解釈や解釈を元にした評価や判断・ジャッジです。誰かを評価するということは、前提として自分は正しい(評価するに値する)という視点にあり、相手を裁いていることになります。
そこには、上下があり、暴力性があります。
NVCでは、真のコミュニケーションに必要な、話し方・聴き方のプロセスを次の4つとしています。
①観察(Observations)
②感情(Feelings)
③必要としていること(Needs)
④要求(Request)
としています。
①観察
観察とは、あるがままを観ることです。起こっていることです。従来の認知行動療法でもそうですが、事実(起こっていること)と解釈(そうだと思われる、といった推測など)を混同しないことです。
(例)たとえば、友達が待ち合わせの時間に30分遅れてやってきた。
ここでは、事実は、友達が待ち合わせに30分遅くやってきたということであって、解釈をしている例としてはカギカッコつきのつぶやきのような感じで「遅れてきたのに、ゆっくりしている」や「遅れてきたのに悪びれもせずに、堂々とやってくるなあ」など
②感情
感情とは、考えや解釈を交えずに内面に沸き起こる気持ちや感じのこと。
この例えでいうと、友達が待ち合わせに、30分遅くやってきたとき、例えば(イライラ)や(不愉快)などの感情が沸き起こったかもしれない。しかし、たとえば「30分も遅れてやってきて、私は軽視された(ように感じる)」と言った場合には、それは判断・ジャッジのことばである。~のように感じるなので、感情ではないかと思われそうだが、それは純粋な感情ではなく思考がはいっているものである。
わたしの感情に責任を持たなくていい言葉であり、被害者というポジションを作り上げ、そのように「感じさせられた」との解釈を加え、他者に責任を押し付けることができる。他者(相手)に感情の責任を持たせるということは、一方的なので暴力的なコミュニケーションといえます。
NVCでは、自分の感情に責任をもつといいます。
③ニーズ(必要としていること)
さきほど感じた、感情の根底には、何かのニーズが隠されているかもしれません。感情とニーズはセットになっており、ニーズが充足されないために、ある感情が生起するということです。その、自分の感情から、自分のニーズ(何を必要としていたのか)を知り、それを知ることにより次の適切な④要求(リクエスト)を出すことができるということです。
ここでは、(イライラ)や(不愉快)という感情が生じたが、それは例えば(配慮・気遣い)や(尊敬)というニーズが充足されないと感じたためだったかもしれません。
これらは、アドラーのいう目的論に近いのかもしれません。ただNVCでは、ニーズを充足させるため(目的)に、怒りという感情を使う(手段)というよりは、自分のニーズを知ったら、次のステップとして、それを相手に正当に伝えるための要求をしっかり伝えるというふうにします。
④リクエスト(要求)
自分のニーズがわかったら、次には相手にどのような行動をリクエストするのか(お願いをする)が明確になる。たとえば先ほどのニーズが(配慮・気遣い)や(尊敬)なのだとしたら、「お互いを尊重した行動をとってほしい」「たとえば、遅れがると分かった時には、連絡をしてほしい(配慮)」などといった、より具体的な行動をお願いすることができます。
必ずしもリクエストが通るわけではありませんが、相手に伝えることで自分の感情やニーズを大事にすることにつながり、相手と同時に自分も大切にするという感覚が生まれるかもしれません。
心の底からの訴えを遠ざけてしまうコミュニケーション
①道徳を持ち出す
人は成長とともに、「自分がどう感じているか」、「何を必要としているのか」を語る言葉よりも、「レッテル貼り」、「比較」、「強要」、「評価」したりする言葉を口にするようになる。
心の底からの訴えを遠ざけてしまうコミュニケーションは、古くは王や王族、貴族などの支配階級のある社会から生まれ、いまや教育や哲学、政治にも深く根差している。
- 他責・他罰の正当化のために道徳を持ち出し、「誰か」を悪と裁く。
- 人を分析する行為は、自分が必要としていることや価値観の訴えである。
- 人を分類し裁くことは、暴力の助長につながる。
②比較をする
- 比較は、形を変えた評価である。
- 比較は、自分を惨めにし、自分以外の人を思いやる気持ちを阻む。
③責任を回避する
- わたしたちの言葉は、自分の感情と思考に対する自覚を鈍らせる。
- 「だって、しかたがなかったから」というような選択肢がないかのような言い方をやめて、選択肢をみとめる言葉遣いをする。
- 自分の行動や考え、感情への責任を意識していないのは危険な状態である。
④人に自分の願望を強制する
- 人に強制して何かをやらせることはできない。
- 願望を強要することは、明示的でも暗示的でも、従わなければ非難や罰が待っていると脅迫していることと同じである。
⑤賞罰の対象となることの基準を持っている
- ある行動は報酬の対象となり、他は懲罰の対象とする考え方心の底からの訴えを遠ざける。
- 「~に値する」という考え方は、思いやりのあるコミュニケーションを阻む。
褒めることもまた、自由なコミュニケーションを阻害する
褒めることは、子育てなどにおいてもよいこととされてきました。
褒めることと叱ることは対のもので、慣用句として知られる「アメとムチ」の例えであれば、「褒めること」は「アメ(甘いもの)」に例えられるものです。
「ムチ」=「叱ること」はダメだけど、「褒める」だけだったらよいということだが、しかし、この2つは対になっており、本質においては同じ2つの性質を持っているというわけです。
褒めるという行為は、相手を評価し、判断を下すということであり、そこには権威者と服従者という上下関係が存在する。それは、平等で自由で闊達なコミュニケーションを阻害する。
そして、褒めらることを条件づけられた人(前文の服従者)は、再び、あるいは幾度も「褒められる」ことを求め、褒められなければ落胆し、「褒められなかったらどうしよう」と恐怖し、それらが行動原理として常に働くようになってしまう。これらは、外的動機づけとして働いている。
褒めてくれる人を常に必要とし、その人が世を去れば、また別の「褒めてくれる人」を探しもとめ、流浪の民となってしまい、いつしか自由とは逆の、依存でからめ捕られてしまう。
こういった、やり取りは、支配の構造として使われ、自由な真のコミュニケーションではないということになる。
競争よりも協力がいい
一時、福祉の世界でも特に有識者と呼ばれるような方たちの間で「インセンティブ」というような言葉がはやり言葉のように聞くことができました。多くの業界で競争原理のようなものが持ち込まれ、鎬を削るという状況が当たり前のようになりました。
それは「基本」ではなく「ご褒美」を追い求めることに執心してしまうかもしれないということです。
私は、そういった状況に(不安)を感じることが多かったものです。そこには、(安心)、(安全)、(協力)といったニーズに関しての(不安)という感情が出てきたのかもしれません。
NVC人と人との関係にいのちを吹き込む法 - マーシャル B.ローゼンバーグ (著), 小川 敏子 (翻訳)
NVC 非暴力コミュニケーションワークブック: 親と子どもが心でつながる「キリン語」の子育て - koko 丹羽順子 (著)