
回避と代行
強迫性障害や強迫行動の治癒においては、曝露(ばくろ)と呼ばれるものが主流であるといわれます。
曝露というのは、字のごとく露わ(あらわ)に曝す(さらす)、曝け出す(さらけだす)ということです。
それは、主となる症状、例えば恐怖の観念を持っているものだったり、不潔の観念を持っているものだったりを徐々にではあっても、あえて、外気に曝け出す、触れさせるといったことをして刺激に慣れさせるということがあります。
一方、治癒とは逆のものとして気をつけなければならないのは、症状が出ると想定されているものをあらかじめ避けたり(回避)、家族など他者に代わってやってもらう(代行)ことを、パターン化させてしまうことです。
毎回毎回、しっかり直面し、選択をしたうえでの回避「今回は、回避を選択しよう」や、代行「今回は、代わりにやってもらおう」ならばまだよいかもしれませんが、選択する余地もなく、今後もずっと自動的にこのパターンで行こうとなると、自らが外気に触れたり、誰かや何かに触れる機会がなくなり、そしてずっとその機会をうしない、結果的に長期化を自らが作ってしまうことになります。
抑圧もまた長期化させる
人は、うまくいったと思った事を永遠に維持したいという欲求にとらわれることがある。
うまくいったことを、自動的なパターンとして踏襲してしまう。それは、選択で迷うこともないので、意志力を使うエネルギーを省略できる。
パターン化によって、一見うまくいったように見えても、長期的には依存症と同じように、自分の行動パターンを顧みることなく依存しているということになる。それは、自分がパターン化し儀式化してしまったものが、観察や選択・意志決定なく横たわっているということである。
何度か紹介したこともある、「抑圧」というものも、また健全な心の状態を保つこととは逆になってしまう。
先に書いた、強迫性障害もそうだと思うが、チック症や特に汚言症と呼ばれるトゥレット症候群などにも、抑圧のメカニズムが関係しているかもしれない(※原因についてはっきり特定されてはおらず、脳や神経の機能的な原因があるのかもしれないが)。
だがしかし、汚言症では、数多ある語彙の中から、敢えて「卑猥」な言葉や「挑発的」な言葉、「言ってはいけない言葉」などが、音声として出てくることを考えると、一因として、その人の中にルール化されたタブーや禁忌、禁止があるのではないかと思う。
それを言わないように抑圧し、無意識下へと封じ込めたときに、マグマの噴火のように沸々と湧き出るのかもしれない。
心理学でいう、「心理的リアクタンス」や「カリギュラ効果」、「ロミオとジュリエット効果」「シロクマ効果」など、抑え込むことによって、却ってそのことが沸騰し、言いたい欲求が増していき、無意識領域で噴出させる(発散させる)のかもしれない。(発していることを意識していないということは)
いわゆるまじめな人(超自我の強い人)は、言葉だけではなく、感情も抑圧してしまう習慣を作ってしまう人もいる。
パターン化した信念として、「おとななんだから、こんな感情を(例:イライラ、怒りなど)感じてはいけない。表現してはいけない」というようなものが形成されていることがあるかもしれない。
抑圧もまた、パターン化しやすいものである。抑圧されたモノは行き場を失い、ただただ蓄積を繰り返していくのみなので、いつか漏れ出たり、爆発することになる。
感情を味わうことは悪いことではない。
感情を味わうことは悪いことではない。むしろ問題解決につながるかもしれないのに。(というよりもむしろ、問題を作り出さない精神状態でいられるということだろう)
禁欲も放縦も、同じ性質のものである。
・禁欲=感情の抑圧であり、大人の振り。
・放縦=感情をまき散らす、子どもの振るまい。
それらは、どちらも「今ある」感情から目を逸らす行為である。禁欲はごまかしであり、放縦は「私」と「感情」の同一化により感情を観る、観察する、味わうことが出来ていないということである。
感情の抑圧も、感情の野放しもどちらも、味わったり、感じたり、観たりという「いま」に存在していない。
存在することが出来ない。
パターン化するということは、過去に生きているということであり、いま目の前にある選択を放棄し、自動反応に委ねていることである。
自由意志が行使できるのにそうしないということは生の放棄、今を生きることの放棄になり、パターン化という自動反応は生きながらにして死すことをあらわしている。
思考の中に今はなく、行動の中にのみ今が存在する。
選択も行動の1つであり、また選択したものを行動していくことが、真に生きることに繋がっていく。
ACTでも「体験の回避」について語られる
ACT(アクセプタンス&コミットメントセラピー)でも、「体験の回避」として語られている。
例えば、ACTの中で重要な概念の一つとして語られる、ウィリングネス(Willingness)は不快な感情や困難な状況を避けるのではなく、それを受け入れながら価値に沿った行動を選択する姿勢を指します。
ウィリングネスのポイントとしては
- 感情をコントロールしようとしない:不安や恐怖を完全に消そうとするのではなく、それらを感じながらも前に進むことを目指す
- 価値に基づいた行動を選ぶ:たとえ不快な感情が伴っても、自分の大切にしている価値に沿った行動を取ることを目指す。
- 体験の回避との対比:不快な感情を避けることに集中すると、長期的には自分の価値に沿った人生を歩みにくくなる。
例えば、苦手な人との会話などに直面したとき、「避ける」のではなく、「向き合う」ことがウィリングネスの実践になります。これは、単なる忍耐ではなく、自分の価値に沿った選択をするための心のしなやかさを育むプロセスです。
ACTでは、まさにACT(行動)することにこそ意味があるといいます。なぜなら思考(過去を悔いたり、未来を心配すること)やそれに付随する感情は、コントロールできないからです。しかし、行動にはアプローチできるからです。
ポリヴェーガル理論では緑の社会交流
「回避」の問題というのは、いわゆる引きこもりの事にもつながっています。
下にYoutubeの動画をリンクしています。動画は、ANNの「ボーッとした生活のツケなのだ」40年のひきこもりから脱出も…仕事や人間関係など試練の連続 求められる支援とは ~日記につづられた孤独~【テレメンタリー】 という番組です。
国近斉さんという方の約40年にわたるひきこもりのことについての動画です。この国近さんの何とも言えない優しさや明るさが見てとれる、とはいえ色々な苦難の経験などを語られています。
上の動画の1:40秒ぐらいから、支援に携わっておられる山口大学大学院 山根俊恵教授(当時)のことばで、
「なにもしないでただ待っていたら、10年、20年…あっという間です。動ける、安全な環境をつくる、しかけて待つということを私たちはやっています。」と。
決断しない、回避のパターンを築き上げると、すべてが自動で流れていくので、毎日が同じ日の繰り返しになってしまうかもしれず、毎日が同じ日になると、いわれているように10年、20年というような時間が驚くほどあっという間に過ぎ去ってしまうのかもしれない。時間感覚というのは主観であるからです。
しかけて待つというのは、主体的な素晴らしい行動だなと思いました。
もう一つ同じ方の動画がありまして、これもリンクを貼っておきます。
同じくANNの「働かんで不安になる。働いても不安になる」40年のひきこもりから脱出も…仕事や人間関係など試練の連続 そんな中、初めて講演に登壇…大勢の前で語った孤独や葛藤【テレメンタリー】
同じく山根俊恵教授(当時)が、この日の勉強会、アンガーマネジメントか何かの勉強会の中で、ひきこもりになる方の中に多い、コミュニケーションの取り方、というか取らない方法(回避のパターン)の入り口について指摘している。
11:42秒ぐらいで
「もしかすると、みんなは怒りを押し殺して、人と対立したくないから、関わらないようにするとかそういう方向をわりと選んだりしてないかな?」
「それが、人と関わらないですよっていう、ひきこもるっていう、対立しないためのちがうかたちというか。悪く言えば回避だけど、自分も相手も傷つかないで済むような行動を無意識にとっているというか。」
哺乳類の進化の過程というのは、特に人間というものは、群れであり社会の中で安全・安心を感じるようになりました。
我々は、相互に依存した生活でのみ生き延びることができます。人間である限り孤立して生きることはできず、社会的な交流の中で安心や安全を感じるように、相互に破滅も安全も握り合っていることになります。
自分が安全と感じられる場所でなければ場所を変える、安全な環境をつくる、自分の価値に基づく行動を主体的にとっていくことによって、結果として安心な場所にいることができると思います。
オートマチックではなく、一瞬一瞬自分の大切な意志を行使し、自分で幸せをつかみとっていくことができるといいなと感じます。
